シュルレアリスムからアール・ブリュットへとつながる通路
ロジャー・マクドナルド(以下、マクドナルド):カーディナル先生は、1972年に歴史的な著書、『アウトサイダー・アート』を執筆されました。この本を書くことになったきっかけについてお話しいただけますか。
ロジャー・カーディナル(以下、カーディナル):1970年に、私は友人のロバート・ショートとともに『シュルレアリスム[イメージの改革者たち]』01という本を執筆しました。この本を出版したのは、「Studio Vista」という小さな出版社で、当時はシュルレアリスム02やアバンギャルド03についての本をシリーズで手がけていました。同じころ、私はパリでシュルレアリスムのリサーチをしており、この出版社の編集者から「何か書きたいテーマはないか」と聞かれたのです。私は、その問いに対して、心酔していたアルチュール・ランボー04の名前を挙げました。後のシュルレアリストたちに大きな影響を与えたフランスの詩人であり、放浪者、そして異端者でもあったアルチュール・ランボーが残した文章、言語的イメージについて執筆したいと。
私は、ランボーについてのリサーチを進めるうちに、ランボーについて執筆するということは、すでに出尽くしている資料をただ再編集するだけの独自性に欠いた作業なのだと気がつきました。しかしその一方で、このリサーチは視覚芸術の分野で何かが起こりつつあることにも気づかせてくれました。私がこの後、アウトサイダー・アートの世界へと移っていったことと、シュルレアリスムの本の執筆のために長期に渡って視覚資料と向き合ってきたこととは、無関係ではなかったのです。
そしてある時、ある人からジャン・デュビュッフェ05が提唱する「アール・ブリュット06」について、これまで考察したことがあったかと聞かれました。私は、いわゆる“非アカデミック07”なアートの世界で起こっていることに、それほど精通はしていなかったものの、ランボーのリサーチの中でいくつかの共通点のようなものを見出していました。――“夢”という世界を真摯に捉えること、“イマジネーション”をあらゆるクリエイティブワークの原初的な要素とすること。上手くいかなくてもいい、予想もしなかったような偶然性にゆだねてもいい――これらは、ランボーが実践してきたアイデアでした。私は、シュルレアリスムをめぐる多くの考察の中から、自分自身で何かを生み出し、それについて知ることができるだろうかと、どこかで考え続けていたのだと思います。だから、アール・ブリュットへとフォーカスを移すことに、それほど時間はかかりませんでした。
ジャン・デュビュッフェが芸術世界に起こそうとしていた革命
マクドナルド:その頃、ジャン・デュビュッフェのことは、すでにご存知でしたか?
カーディナル:知ってはいましたが、彼が発信していたアール・ブリュットの哲学によって人々が影響を受け、革命的な運動を生み出していることには気づいていませんでした。私は、彼が言わんとすることが、どのようにアヴァンギャルドの常識と接続するのかを注意深く見ていました。デュビュッフェは当時、確かこのようなことを言っていたかと思います。
「あなたが完全に見過ごしてしまっている“別の何か”がある。普通の暮らしや、暮らしをよりよくすることから挫折しかかっている人たち、突然の不幸に見舞われた人たち、ガールフレンドから一度も返事をもらえなかった(失恋した)人たち。人々が無関心や鬱に陥るのには、多くの理由がある」
マクドナルド:つまり、誰もが明日、アール・ブリュット作家になる可能性を秘めていると。
カーディナル:私は、シュルレアリスムのリサーチの中で、自殺などについても考察してきたので、デュビュッフェのこの言説には敏感に反応しました。シュルレアリスムは、アンチ右翼の立ち位置も利用していました。たとえばシュルレアリストたちは、彼らにとっての敵であるブルジョア階級や教育システム、政治的右翼を激怒させるという目的のためだけに、マルキ・ド・サド08を英雄として祭り上げたのです。こうしたことが同時におこっていた1930〜40年代当時の背景を知ることで、私がデュビュッフェの理論の中に素晴らしいものを見つけたのは明らかでしたし、彼の論争を読み始め、デュビュッフェもまたシュルレアリストなのだと感じたのです。デュビュッフェは、私たちが深く知り、尊敬するべき人物。常に心にとどめ、ともに旅をするべき英雄の一人なのだと。
マクドナルド:そこから本の制作へと入っていったのですね。
カーディナル:そうです。デュビュッフェの考察について編集者に話をすると、「それはおもしろい試みだ、ぜひリサーチを進めてほしい」という返答がありました。私はこの本の企画書に、確か「ありのままの芸術」というタイトルを付けました。
アウトサイダー・アートにまつわる議論の多くは、「私は誰なのか」という問い、個人の内面に深く切り込むことへとつながります。つまり、この本に取り組むということは、危険で挑発的な要素を含んでいる。二度と本を書くことができなくなるかもしれないほど、著者を傷つけうる題材でした。
マクドナルド:それは、当時のメインストリームの芸術世界には、今から想像もできないほど凝り固まったルールやしがらみがあったということ。それに対抗する行為で、相当反感を買うような題材だったということですね。
カーディナル:そうです。しかし、当時の私は40代前半で、この重荷を背負うだけの若さがあった。私は、この本に弾薬を込めるため、デュビュッフェのいるパリへと向かいました。これは、私にとってはデュビュッフェに対する知的な奇襲だったのですが、彼はあまり気に留めていないようでした。対面したときには、彼はすでに本の企画書と、第一章あたりまで目を通してくれていました。デュビュッフェは、自身が関わったアール・ブリュットの概要に触れる数冊のパンフレットやシリーズ本をもとに、3週間に渡って私に解説をしてくれました。それは、彼が過去に1日3〜4名のアーティストの作品に目を通していった調査記録でもありました。デュビュッフェは本当に、ゲリラ戦の男でした。このような著作をもって、疑うことを知らないパリジャンの芸術の世界に戦いを挑んだのですから。
マクドナルド:この背景の中でのデュビュッフェのアール・ブリュットは、今よりも遥かにポリティカルな要素を孕んでいたのですね。
カーディナル:そうです。しかし残念なことに、ほとんどの人は長い間、彼の試みに気づいていませんでした。
マクドナルド:アール・ブリュットが生まれた1945年から、あなたが『アウトサイダー・アート』を出版するまで、およそ27年の開きがありますね。私が知る限り、その歴史を振り返ってみても、この27年間に研究者や批評家によって、アール・ブリュットが表立って取り上げたれた痕跡は見当たりません。いかにあなたが先駆的だったかということだと、私は思っています。
出版された『アウトサイダー・アート』を、
はじめに手にした人々
マクドナルド:カーディナル先生はご自身の著書の中で、当時デュビュッフェが“アカデミックなアート”をどのように批判していたかについて、「オルタナティヴなアート」という言葉を使って書かれています。アートが常に拡張し続け、すべてを取り込んでいくようにも感じられる現代から見ると、当時の状況はまるで別世界のようです。当時のアートは、そんなにも厳密に管理され、統制されていたのでしょうか?
カーディナル:あの頃のような統制された状況は、今となってはすっかり過去の話になりましたね。当時、私は『アウトサイダー・アート』の執筆を始め、聞いたこともなかった無名のアーティストたちの名前を、ようやく知り始めていました。“物事が起こる”のに、正しい時期が訪れようとしていることを肌で感じていました。しかし実際には、私の本はほとんど無視されたままでした。アメリカで文庫本が、イギリスでハードカバーが出版されましたが、全く売れませんでした。しかし一方で、多くのアーティストがこの本の存在に気づいてくれたのです。彼らはすでに「オルタナティヴなアート」への世界へ入っていく準備ができていたのだと思います。
マクドナルド:最初にこの本を手に取ったのはアーティストたちで、それを追うように批評家や美術史家などが読み始めたんですね。
カーディナル:私は1972年に本を出版し、1979年にはロンドンの〈ヘイワード・ギャラリー〉でアウトサイダー・アートの展覧会を開催しました。それ以前にも、デュビュッフェは自身のコレクションの一部を展示したことはありましたが、アウトサイダー・アートがこれほどまで人の目に触れるようなことはなかった。このことにおいても、私の仕事を認めてくれたデュビュッフェには、本当に感謝しています。彼は英語がそれほど話せなかったので、私の本を読んではいないでしょうが、私がどこへ向かおうとしているのかを知っていましたし、この大胆な 企てを喜んでくれていたと思います。
マクドナルド:“どこへ向かおうとしていたのか”。この本の具体的な内容とは、どういうものだったのでしょうか。
カーディナル:この本は、デュビュッフェの仕事の重要な部分を要約したものに、知的な論争をさらに豊かなものにするため、私が探してきた知識人たちの言葉を加えて完成させました。その知識人たちとは、アドルフ・ヴェルフリの世話をし、彼に関する最初の本を書いたヴァルター・モルゲンターラー09、精神病患者のアート作品の偉大な収集家であるハンス・プリンツホルン10、1950年代から精神病患者たちの芸術性に気づき、才能を伸ばそうと指導していた “グギング・コレクション”のレオ・ナヴラティル11などです。
「ここにもこんなヴィジョンを持った人たちがいる。自殺傾向があるとみなされながら、壁に何かを見いだし創作を始めた人。突然の不幸によって、海から小石を持ち帰り、自分の家の周囲に貼り付けはじめた人」など、私はリサーチでさまざまなアートに触れていくうち、徐々にこのようなアートをノーマルなものとして捉えるようになっていきました。
(第2回へ続きます)