*本記事は「一緒に遊ぶ、からはじまること――対談NAOYA(ePARA)×なむ(ゲームさんぽ)」「『AUDIO AR GAME MAKER』でオーディオゲームをつくって遊ぼう!ワークショップ体験記」「ゲームがつなぐ「あいだ」って?」の3記事とあわせてご覧ください
「文化とは意味の網の目の体系である」
人類学者クリフォード・ギアツは、文化をこのように定義した。そして彼は、次のように人間を説明する。
「人間は、その自ら拵えた意味の網の目に囚われた生き物である」と。
わたしたちは日々の生活において無自覚にこの意味の網の目に縛られている。何が正しい/間違いか、あるいは何が普通/異常か、そして何が健常/障害か。境界線(/)の引き方は、生まれ落ちた社会の価値基準をもとにいつの間にか覚え、ときに反発や修正を加えながら、いつしか「あたりまえ」という感覚に落とし込んで自分のものにしていく。
障害に関して語るときも同様である。目が見え、耳が聞こえ、両手で既製品コントローラーを操作し、1週間のほとんどが心身元気快適であるのが「あたりまえ」。それらのリストのひとつでも満たしていなければ「障害」となり、それを克服するためにかかる労苦は「コスト」とみなされる。
けれども、社会の問題はコストの問題である前に、意味の網の目の問題である。ただ、自らが絡め取られたこの体系を自力で解くのはとても難しい。だからこそ、その突破口のひとつに、「アート」がある。
アートという語感はどうしても高尚な美術作品を想起してしまうけれども、人類学者のアルフレッド・ジェルはそれを「世界を変えることを意図した行為の体系」と表現した。そして作品単体や個人を指すものではなく、ヒトやモノが関係し合って織りなす仕方そのものとして、アートを再定義した。
アートは、さまざまなヒトとさまざまなモノの織り合わせ。アーティストとは、そのはじめから〈あるもの(ビーイングス)〉ではなく、その巻き込まれの渦中で〈生成されるもの(ビカミングス)〉。そう考えてみると、本特集(『DIVERSITY IN THE ARTS PAPER vol.14』 )で登場する「ゲーマー」や「ゲームメイカー」たちもまた、「あたりまえ」の世界を変える営みをぼくたちに見せてくれるアーティストであるともいえる。
大切なのは、こうしたゲーマーたちが垣間見せてくれたバリアフリーな世界にぼくたちが参与していくことだ。ふだんとは違う仕方、つまり使ったことのないモノや関わりのうすいヒトとの関係を日常にあえてつくり出していく。世界を変えることを意図して自らの意味の網の目を揺さぶり、その「あいだ」に分け入っていくことをはじめてみよう。