ストーリー

(カテゴリー)ヴィヴィアン佐藤の『多曜ロードショウ』

vol. 05 自分を生きる。

目次

【絵】ヴィヴィアン佐藤さんによる線画。中央に扉、両脇にテーブルと椅子、ランプ、燭台などが描かれる。

(シリーズ)ヴィヴィアン佐藤の『多曜ロードショウ』

(このシリーズについて)

それぞれが違う生き方しているのだから、人の数だけ映画解釈はあっていい。誤読も、独自解釈もなんでもあり。作家であり映画評論家のヴィヴィアン佐藤さんが、多様性をキーワードに映画を読み解きます。

vol. 05 自分を生きる。

クレジット

[イラスト]  ヴィヴィアン佐藤

[構成]  石村研二

読了まで約12分

(更新日)2022年08月10日

(この記事について)

人間はいびつな多面体。一人ひとりのなかに多様性があり、いろいろな側面をもって生きています。そんな中、自分を見つめ直し、新しい自分を知るきっかけとなるのが、演劇、音楽、絵画といった芸術の存在。時代のなかで葛藤しながらも、芸術とともに生きる人々が描かれた3本の映画を紹介します。

 

今回紹介する映画
01『アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台』
02『C.R.A.Z.Y.』
03『魂のまなざし』

本文

01『アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台』

[STORY]
刑務所の囚人たちに演技を教えることになった俳優の奮闘が描かれる。売れない俳優のエチエンヌは、刑務所で行った演劇ワークショップの公演に手応えを得て、5人の受刑者とサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を公演することに。刑務所外で公演を目指し、エチエンヌは悪戦苦闘しながら受刑者たちとの信頼関係を築いてゆき、公演にこぎつけるのだが……。スウェーデン人俳優の実体験をもとに、フランスで映画化。

7月29日より全国ロードショー。
『アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台』公式サイト

 

2022/フランス/105分
配給:リアリーライクフィルムズ/インプレオ
©︎2020 – AGAT Films & Cie – Les Productions du Ch’timi/ReallyLikeFilms

【写真】エチエンヌをかこみ、脚本らしきものをみながら談笑する囚人たち

©︎2020 – AGAT Films & Cie – Les Productions du Ch’timi/ReallyLikeFilms

ギリギリのところでこそ発揮されるアートの力

 

ヴィヴィアン佐藤(以下、ヴィヴィアン)
フランス映画の洗練というよりも、すごく等身大の映画です。

これは刑務所の話なのですが、罪を犯した人たちが、人生や人間とは何かというようなことを学ぶためにアートが使われていることが、すごくおもしろい。彼らのようにギリギリのところにいるからこそ、アートが効果を発揮する。

 

DIVERSITY IN THE ARTS TODAY(以下、DA)
ギリギリの状態とは?

 

ヴィヴィアン
彼らが上演する『ゴドーを待ちながら』は、待っても待ってもゴドーが来ないというものですごく不条理な話です。囚人たちもずっと刑期が終わるのを待っている。つまり宙吊りの状態にいますよね。そういうときにこそアートは必要で、そういうときにこそ人間性が現れる気がします。

作家で社会運動家のスーザン・ソンタグは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争下のサラエボで『ゴドーを待ちながら』を上演しました。彼女は「そういうギリギリの状態でこそ、アートに接する、または劇を演じる、鑑賞することが人間の尊厳である」というようなことを言っていて、それを思い出しました。

 

【写真】『ゴドーを待ちながら』の練習風景。手前にいるエチエンヌを舞台衣装をつけた5人の囚人が真剣に見つめる。

©︎2020 – AGAT Films & Cie – Les Productions du Ch’timi/ReallyLikeFilms

他人の人生を生きると見えてくるものとは

 

DA
『ゴドーを待ちながら』は単純な話ではなく、誰かもわからないゴドーをひたすら待つ話。囚人たちがどう受け取るかが興味深かったですね。

 

ヴィヴィアン
舞台になっている刑務所は、移民や精神を少し病んでいる人がいて、ある意味フランス社会の縮図のような場所。監督は、企画を進めていくときにフランスの郊外にある刑務所の受刑者たちがパリの公園でギリシャ叙事詩『イーリアス』を上演したのを観て、この映画を制作することを決めたそうです。フランスでは、芸術を高尚で素晴らしいものとしてだけではなく、人間に必要不可欠なものととらえる意識があるのでしょう。

囚人だから悪人というわけではないし、完全な善人がいるわけでもありません。人間そのものがいびつな多面体。演劇やアートを媒介にすることで、人間のそうした多様な側面が出てくると私は思っていて、この映画からもそれを感じました。

 

【写真】『ゴドーをまちながら』の終演後の挨拶。みんな手にバラをもち、客が拍手をおくる。

©︎2020 – AGAT Films & Cie – Les Productions du Ch’timi/ReallyLikeFilms

DA
ヨーロッパでは90年代くらいから、精神診療所や刑務所で演劇を実践する「ソーシャルシアター」というものが盛んになっているようです。

 

ヴィヴィアン
他人を演じて語り直すという意味では、日本で言えば能が近いでしょう。話がそれるのですが、濱口竜介監督の『偶然と想像』という映画の「チャプター3」を観て、あれは「セルフ能」だと思いました。能というものは、念が残っている人や成仏できない人を呼んで語らせて、こちらが共感して一緒に涙するもの。『偶然と想像』の「チャプター3」は実際には語られず、行動できなかったことを、見知らぬ他人と共有することで、自分自身を救済させる話だと思えました。自分自身の物語を、能のようにやり直す。演劇にもそういう効果があると思います。語り直しをすることで救済し、トラウマも治癒する。

 

DA
囚人たちも演じることで何かを得たように見えました。自分たちの演技で客が笑ったりと、いろいろな反応を得られたことも良かった気もします。

 

【写真】緊張したおももちで舞台を見つめる観客たち

©︎2020 – AGAT Films & Cie – Les Productions du Ch’timi/ReallyLikeFilms

ヴィヴィアン
他人を演じて他の人の人生を生きることで、これまでとは違う視点で世間を見ることができるのでしょう。それが、日常の鏡にもなる。

 

DA
囚人は「見てはいけないもの」という意識が私たちのなかにもどこかであるのだけれど、そうした人たちを舞台にあげている。そして、彼らも見てほしいから演じている。

 

ヴィヴィアン
お客さんは、最初は「囚人たちの演劇を見たい」という好奇心だったかもしれないけれど、見ているうちに関係なくなっていく。演技がうまい、へたではない、生き様がそこにあったのでしょう。

 


02『C.R.A.Z.Y.』

[STORY]
1960~70年代のカナダ・ケベックを舞台に、保守的な家庭で育った青年の葛藤と成長が、時代を彩る名曲とともに描かれる。クリスマスの日に生まれたザック。母親からは「特別な子」と呼ばれ、父親にも特別扱いされていた。バラバラな個性を持つ5人兄弟の中で育ったザックは、思春期を迎える頃、同性に惹かれるように。自らのアイデンティティと父親の価値観との間で揺れ動きながらも、自分らしく生きることを模索する。

7月29日(金)より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷他にてロードショー
『C.R.A.Z.Y.』公式サイト

 

2005/カナダ/129分
© 2005 PRODUCTIONS ZAC INC.

【写真】顔に赤い稲妻を描いた青年時代のザックが自室のベッドに寝そべり、驚いた表情で外を見つめる。ドアにはデビッド・ボウイのポスターが貼られる。

©︎2005 PRODUCTIONS ZAC INC.

日常にあるささやかな奇跡と神秘体験

 

ヴィヴィアン
前半の子ども時代は私の話かと思いました。ずっとおねしょをしていたので(笑)。この映画では、誰もが経験することが語られているとも思いました。

まずは、奇跡的なことがたくさん描かれていましたよね。主人公のザックは、不思議な能力をもった特別な子として描かれていましたが、どんな人でも神秘性をもっていると私は思っています。人間であること自体、説明のできない神秘体験。

そして、青年になったザックが、ブルース・リーやデビッド・ボウイ、その時々で憧れている人になりきって、ファッションがどんどん変わっていきました。そういうことも、多くの人がやっていること。違う世界に住んでいる人に自分を投影する。この世界じゃないところに自分を置いて、違う自分を作り上げていくということをしますよね。今でいうと、部屋のなかでTikTokをやって、メタバースに身を置く感覚でしょうか。

 

DA
クリスマスの日に生まれ、特別な力をもったザックですが、どちらかというと神秘を避ける傾向があるように見えました。

 

ヴィヴィアン
キリストと同じ誕生日に生まれたから、宗教と関わらざるを得ない。けれども、そういのがいやだったから神秘的なことを避けていたのでしょう。

【写真】3人の兄とともにソファに座る少年時代のザック。兄弟たちが怪訝そうな顔でみつめる。

© 2005 PRODUCTIONS ZAC INC.

DA
とはいえ、彼の生活では神秘体験が普通に生活の中に紛れ込んでいました。

 

ヴィヴィアン
たくさんの奇跡が起こるのですが、これみよがしではなく非常にささやか。この映画で起こる神秘体験は劇的ではないのですよね。

 

DA
劇的に奇跡が起こった! と思ったら、それは妄想だったというシーンもいくつもありました。

 

ヴィヴィアン
少年時代、父親に強制参加させられたキャンプで「おねしょしませんように」と、神様にお願いしたにもかかわらず、おねしょをしてしまっていましたね。肝心なところで奇跡は起きません。この物語は映画として最終的にどうなるかは問題にしていない。続いていく人生や時間の一部分を切り取っただけで、そこに意味があるかもしれないし、ないかもしれないということを感じました。

ジャン=マルク・ヴァレは大好きな監督です。この監督は、前世のことや、どうしてこの親から生まれてきたかなどをテーマにしています。ヴァネッサ・パラディ主演の『カフェ・ド・フロール』(2011)もいい作品でした。フランスでダウン症の男の子を一人で育てている母親と、ケベックの誰もが羨むような売れっ子DJ、この2人の生命が場所も時代も違うのにリンクしている。この映画でも非常に不可思議で、説明できない神秘を描こうとしてます。

【写真】親戚が集まったパーティー。机の上にはごちそうが並ぶ。中央には青年時代のザック

© 2005 PRODUCTIONS ZAC INC.

親はいつまでたってもアマチュアでしかない

 

DA
ザックは自分の性に悩んでいました。

 

ヴィヴィアン
性的マイノリティを表す言葉として、LGBTQ+が使われていますが、私は分けることには意味がないと思っています。全部あげると70くらいありますし、同じ人間は2人といないわけですから。ザックのような個性であり、唯一無二の生き方として性別があるほうが普通ではないかと思います。

 

DA
ザックの苦しさは性的指向そのものより、お父さんの望むようになれないことも原因なのでしょう。

 

ヴィヴィアン
父親を裏切りたくないから期待に応えたいと思っていますよね。ザックの女装が見つかって、お父さんとの関係がうまくいかなくなったとき、「昔の父を返して」というようなことを言っていました。「子どもは親のもの」とされているけれど、「親も子どものもの」でもあるという視点がここで見えてきます。

結局、親は親としては一生アマチュアだと思うのです。人生のなかで育てる子どもの人数は多くて5人くらい、しかも自分とは違う生命と向き合うわけですから、それぞれの子どもの価値観や哲学を認めていくときに、自分がどう判断して行動すればいいかわからない。健康で幸せになってもらいたいという気持ちがあるだけに難しいですよね。だから親はいつまでたってもアマチュア。子どもは100%、プロフェッショナルな子どもなのですが。

 

【写真】長兄を真ん中に5人の兄弟が並び、腕を組む。後ろは父親の車

© 2005 PRODUCTIONS ZAC INC.

DA
お父さんは同性愛や女装を嫌悪していたけれど、息子を受け入れたいという葛藤もありました。

 

ヴィヴィアン
このお父さんは信仰心があって、理性というものが下敷としてある。一方で、自分が羽目を外すときもあるし、自由に生きる息子たちを容認してあげたいという気持ちもあり、そこに迷いや葛藤がある。

たとえば映画『ベニスに死す』(ルキノ・ヴィスコンティ監督、1971年制作、イタリア映画)でもそうした迷いや葛藤がでてきます。主人公のアッシェンバッハは、理性的世界に生きていたのに、美少年に出会ってしまったことで違う世界へと傾倒してしまう。でも振り子のように迷うのです。

ザックのお父さんも、振り子のように迷っていました。だから息子たちを見てうらやましくも思っている。結局、アマチュアであり続けることが悪いのではなくて、悩んで生きるということは「本気」だということですよね。

 

DA
5人の兄弟それぞれに個性的でしたが、お父さん、お母さんもかなりのものでした。

 

ヴィヴィアン
お父さんもお母さんもかわいい。親も自分の人生を生きている。子どもたちの生き方が描かれているのですが、両親の生き方も並行してそこにある。そのことが表現された映画でした。


03『魂のまなざし』

[STORY]
モダニズムを代表する画家の一人として注目されるフィンランドの画家ヘレン・シャルフベック。彼女の人生を決定づけた1915年からの8年間が描かれた伝記映画。高齢の母親と二人で暮らしていたヘレンは、世間では忘れられた存在だったが、あふれでる情熱とともに作品を描き続けていた。ある日、画商が訪れることで、彼女の画家人生は一転。ヘレンが描きためていた作品をすべて買い取りヘルシンキで個展が開かれる。さらに画商に紹介された年下の青年エイナルとの出会いが人生にも変化をもたらす。

7月19日(金)よりBunkamuraル・シネマでロードショー
『魂のまなざし』公式サイト

 

2020年/フィンランド・エストニア/122分
©Finland Cinematic

【写真】アトリエで筆をとり制作にうちこむヘレン。そのまなざしは強く、みけんに皺がよる。

©Finland Cinematic

画家の生き方とオーバーラップした絵画の呼吸音が感じられる

 

ヴィヴィアン
この映画は、いかがでしたか? 主人公のヘレン・シャルフベックは、フィンランドの国民的画家。日本でも、数年前に大きな展覧会をやったようです。

 

DA
説明が極端に少ないので、理解するまでに時間がかかることはありました。

 

ヴィヴィアン
私は描きかたがおもしろいと思いました。ヘレンの作風と映画がリンクしていて、四季折々いろいろな時間、太陽と影の切り替わるところ、そういうところをすごくていねいに描いていましたね。絵画のような印象がありました。ピアノとバイオリンの旋律が何度も流れてくるのですが、それが波のようにも感じました。特に素晴らしかったのが音。衣擦れの音、キャンバスを削るナイフの音、筆を重ねるときの音、板張りのアトリエを行き来するときの音とか、そういう音が印象的に描かれていました。その音は、絵を描くのが人生の一部である彼女の人生とオーバーラップしていて、本来なら音がない絵画に音を与えている。「絵画の呼吸音」のように感じました。

【写真】椅子に座り、考え事をするかのように前の机に身体を預けるヘレン

©Finland Cinematic

DA
たしかに彼女の生活自体が絵画のようで、貧しくても画家であることを貫いていました。とはいえ、映画冒頭で「どうしてあなたは戦争や貧困を描くのですか」という質問がありましたが、劇中でヘレンが描いていた絵画は、人の横顔や自画像が多かったですね。

 

ヴィヴィアン
そのあたりは謎めいていますよね。ヘレンは「キャンバス上のリズムが暴力的で発作的で、それは自分自身である」と言っているのですが、本人の心情はなかなか見えてきませんでした。でも、彼女は自分自身の作品をとおして、社会や時代を表現しようとしていたのでしょう。

 

DA
作品をとおして?舞台は、1918〜1923年代のフィンランド郊外でした。

 

ヴィヴィアン
ヘレン・シャルフベックはモダニズム作家といわれています。モダニズムというのは、例えば小説とはなにかとか、絵画とはなにかとか、音楽とはなにかをテーマに表現をしていた芸術運動。彼女も自分自身をとおして自己言及的に絵を描くことで、その先にある社会、女性の生き方、貧困などを描いていたのでしょう。使命感のようなものもあったように感じます。そうした時代を描くことと同時に、光や色もすごく気にしていて、花に太陽の光があたったらどう見えるかということなどを淡々と試していましたね。

 

【写真】フィンランド南西部の海辺の街、タンミサーリの別荘の部屋に立つヘレンの後ろ姿。斜め前には、なにも描かれていない白いキャンバスがある。

©Finland Cinematic

自画像を描いて自分の「イデア」を探す

 

DA
自分が描くために必要な「完璧なりんご」を、3時間かけて探していました。

 

ヴィヴィアン
その気持ちはわからなくはありません。りんごの「イデア」を探していたのでしょう。「イデア」というのは、例えば、いろいろな種類のアルファベットが載っているデザイン本があったとして、全部の「A」をたして頭数で割ると平均的な「A」がでてくる。これがAのイデア。平均的なもので、理念、観念ともいわれています。でもそれは形になった途端、「イデア」ではなくなってしまいます。

固有のものではなくて、その先にある普遍的なものを探す。モダニズムはそういうところがありますね。ヘレンが自画像をひたすら描いていたのも、その先にある自分を求め続ける行為。

 

DA
でも、決してたどり着くことはできない。「自画像を描くのは不可能だ」ということも言っていましたね。

 

ヴィヴィアン
それでも描かずにはいられない。非常に禁欲的な作家ですよ。それから、この映画の構造はインタビューに答えて自分の人生を語るというものですけれど、彼女は冒頭に「間違ったことをいうからうまく話せません」ということも言っています。

 

【写真】ヘレンの横顔。近くには伝記作家の男性がいて、ヘレンを見つめている。

©Finland Cinematic

DA
自分の中の「イデア」と、発した言葉が一致しないから……。

 

ヴィヴィアン
そうだと思います。ヘレンは芸術のうえで「イデア」を求め続けた作家でしたが、彼女自身の身体性は繊細だったのかもしれないですね。

 

DA
失恋して絵が描けなくなっていました。

 

ヴィヴィアン
非常にもろい。作品を作るうえでの哲学と、芸術家の身体性は違うものなのでしょう。でも、モダニズムの時代、前例のないなか、自分の信じている生き方を貫いていました。なかなかできることではありません。この映画は、そうした彼女の生き方や作品とリンクしている。彼女が身の回りに置いている調度品も美しくて、スケッチせずにはいられませんでした。

 


関連人物

ヴィヴィアン佐藤

(英語表記)Vivienne SATO

(ヴィヴィアン佐藤さんのプロフィール)
作家、映画評論家、非建築家、ドラァグクイーンなど。青森県七戸町をはじめとした地域のイベントをディレクションするとともに、日本各地でヘッドドレスワークショップも開催。詳細は、ヴィヴィアン佐藤Twitter、Facebookで随時更新中。
(ヴィヴィアン佐藤さんの関連サイト)